癒しのエクスタシィ

調布市 国領神社の 千年乃藤。
車椅子のご利用者様と共に観て、次の日には伴侶を誘って
また見に行きました。
(キャッチコピィが 闘う癒し系 であるにもかかわらず)
わたしが、普段から意識して使わないようにしている言葉、
それは 癒し である。
癒し は、以前は文学の中でしかお目にかかれなかった
ような気がする。
わたしが子どもの時分には、父や母がそう喋っているのを
聞いたことがない。
なのに今は、わが子が猫にほおずりして いやされるぅ~…
なんていうのだからどうしたものかと思ってしまう。
先日、地元・調布市の『なべくら母乳育児相談室』へ行った。
ここは、桶谷式の母乳相談所であり、わたしも一子の断乳時
には大変お世話になった。
友人の美香さんが最近、相談所の一室でトリートメントを
始めたので、どれどれと体験させていただいた。
はじめに頭部に触れ(頭蓋仙骨療法)、頭が緩んだところで
足のオイルトリートメント、そして時間をかけて
ヒーリング をしてくれた。
ヒーリング なんて身もふたもない名前だね
もっと素敵な名前をつけようよ と笑いながら身を委ねる。
彼女は綿毛布の上からからだに手をあてる。
わたしは仰向けとうつ伏せに。
ただそれだけ。
(とはいっても施術にはそれなりの裏づけがしっかり
あります。念のため。)
それなのに、最近ひっかかっていた感情がほどけて、
あとからあとから涙が出てきた。
癒しについて書くのは易しいことではないが、
昨年から今年にかけて、わたしの内側でおこった
きもちの変化について書いてみようと思う。
癒しとは、自分の本当に求めている 何か を知ること
なのではないか。
そして、求めているものが何なのかを知る経過そのものが
癒し なのではないだろうか。
怒りや嫉妬や不安などの感情をありのままに認めること。
そして、自分の起こした行動そのものを認めること。
苦しいとき、誰かのせいにしているうちは
癒しは訪れない。
そして、怒りの矢印が自分に向かっていくと、
いのちの中にある鏡に小さな傷がたくさんついて、
本当に大切な何かが映らない状態に陥ってしまう。
以前から、自分がしあわせじゃないと母も悲しむだろうとは
感じていた。何故なら、どうしようもなく落ち込んでいるとき、
用もないのに電話がかかってくるからだ。
(わたしたちは本来用事のあるときしか話をしない。)
そのうちに、わたしがしあわせじゃないと、
故郷の親友にもなんとなく伝わってしまうだろうな
それは彼女を大いに哀しませるだろう、
と思うようになった。
そして今は、自分がしあわせであることだけが、
大好きなひとたちに対するただひとつの報恩なのだ
と感じるようになった。
そのひとのしあわせ感は見た目に、とくに肌の感じに
現れてしまうものだと思う。
しあわせなセックスをしているか
しあわせな自慰(…)をしているのか
つまりは自分を大切にしているのかどうか
からだの在りかたを診て、肌に触れれば
わかるひとにはわかってしまうものなのではないか。
美香さんはエスパーでもなんでもないし、
わたしだってそうなんだけれど、
どうしようもなく感じてしまうものだよね。
癒しは、
ひとり苦しんでいるときには滅多に訪れてはくれない。
勇気を出して誰かにこころを開いたとき、
そして身心を委ねたときにそれはやってくる。
それは、誰かが癒してくれるのではなく、
ひととひとの縁 そして 化学変化というより他にない。
ただひとつ言えるのは、みずから求めて行動を起こす
そこにしか起り得ない ということだ。
本当の癒しは、何にも勝るエクスタシィである。
美香さんのブログ『贅沢な質素生活』
http://plaza.rakuten.co.jp/mikarinrin/
なべくら母乳育児相談室 http://www.nabekura.jp/
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